2025.8.5
ドラマ映画制作事業本部 CM制作部 吉良秀和
はじめに
現在46歳。映像業界に入って四半世紀を超えてしまいました。
このブログの目的は「映像業界を目指している方へ」ということなんですが、社歴も浅いし、どんなことを書けば良いかと思いましたが、自分はやはり経験からしか語れないな、ということで恥ずかしながら、自分語りしかないかなと。
私がいかにUNITED PRODUCTIONSに入社するに至ったかを時系列で書いてみますので、しばしお付き合いください。
90年代、映像に憧れたあの頃
自分が学生時代を過ごした90年代は、映画やミュージックビデオの世界がとにかく眩しかった。
ダニー・ボイル、クエンティン・タランティーノ、リュック・ベッソン、デヴィッド・フィンチャー、ウォン・カーウァイ、岩井俊二、黒沢清、青山真治、塚本晋也、石井聰亙(現・岳龍)、堤幸彦など、強烈な個性を放つ監督たちが台頭。
MVの世界では、中野裕之、丹下紘希、牧鉄馬、竹石渉、竹内スグル、紀里谷和明といった映像作家たちが、音楽と映像の融合で新しい表現を切り拓いていました。
CDが飛ぶように売れ、ミニシアターブームに沸いた90年代。映像制作には予算もバブルの残滓が多少あり、寛容さもあって、カッコよくて面白い作品が当たり前のように生まれていた。
そんなキラキラした世界に憧れたものの、当時の私はといえば、成績もパッとせず、金もない。ただ一つ、「テレビとか映画とか、ミュージックビデオって面白いよな……。あれ、自分も作りたいかも」という思いつきだけで、映画の専門学校へ進学しました。
専門学生時代、ほぼ記憶なし
地元埼玉から出てきて東京の専門学校へ最初に踏み入れた日。玄関ホールには裸の若い女性の写真がドーンと飾ってあり、「これが都会の学校か・・・」とマジマジ見つめてしまいました。写真科もある学校なので、そういったアート写真が飾ってあるのは当然なんですが。
新聞販売店に住み込みで働きながらの学生生活だったので、授業の記憶はほとんどありません。(まあ、単純に私が怠け者だったという説もありますが…)
女性の写真以外で唯一鮮明に覚えているのは、フィルム編集の授業。実際にフィルムをハサミで切り、テープで貼る。「映画って、物理的にこうやって作ってるんだ…」と、妙に感動したのを覚えています。
そして、就職活動をしないまま卒業〜テレビ業界へ
案の定、新聞配達を言い訳に就職活動は一切せずフリーターに。
「まあそのうちなんとかなるっしょ」とプラプラしていた私でしたが、周りの友達がきちんと就職しており、だんだん遊んでくれなくなってきた半年後の10月にようやく「あっ、やばい。就職しなきゃ」と我に返り、雑誌の求人欄で見つけた南青山の小さな番組制作会社に慌てて就職。
理由は生粋のテレビっ子でもあり、9時5時の仕事は普通に無理だと思っていたため、よく業界のことを調べもせず、好きだという理由だけで入ってしまいました。
「コンプライアンス」や「働き方改革」なんて言葉が存在しなかった時代。1週間、2週間、果ては1ヶ月、家に帰らず会社に泊まり込み、快適に寝る為、椅子や梱包材のプチプチの争奪戦をAD仲間と繰り広げる日々。
9時5時どころではなく、30時などわけのわからない時間割りで働いてました。
テレビ東京の朝の情報番組、CSのちょっとアダルティな番組、企業VP…。編集室ではVHSの仮編集を見ながらタイムコード(TC)を手書きで書き写し、編集マンに渡す。
1カット抜けてると烈火の如く怒られる、なんてのも日常茶飯事。
当時はまだリニア編集が主流で、サイドテロップ1本入れるのに“尺分待つ”のが当たり前。
それに比べて、今のノンリニア編集(ってもう言わないですね)は、まさに夢のような技術ですね。D2やβcamなどの素材を紙袋いっぱいに入れて、走り回ってました。
MVの世界へ、そして一度離脱
3年近くADを続けたあと、「このまま番組ディレクターになるのって、自分に合ってるのかな…」と迷い始めた頃。
知り合いのカメラマンが、当時、映画「狂気の桜」やテレビドラマ「IWGP」「ケイゾク」のタイトルバックなどで注目されていた薗田賢次監督を紹介してくれ、MVの制作現場にPM見習いとして入れてもらえることになった為、番組制作会社を退社。
K DUB SHINE、ZEEBRA、DREAMS COME TRUEなど、多彩なアーティストの現場を経験させてもらい、現場の熱気と創造性にワクワクしつつも、これだけで食べていける給料ではなく断念。ペーペーだったので、当然なんですけどね。
映像の世界から一旦距離を置き、池袋パルコで警備員をしながら、のんびりと20代中盤を過ごします。今思えば、あの時間、ちょっともったいなかったですね。
再び映像の世界へ、今度は広告業界
そんなある日、「CMも好きだったな。意外とアリかも」と、またもや唐突に思いつき、今度は広告制作会社を片っ端から受け始めます。
そしてなんとか、26歳で広告制作会社に滑り込むことができたのです。
そこはなんというか、同じ映像業界でもテレビやMVの世界とは全く異なる世界でした。
長時間労働自体はそんなに変わらないんですが、誤解を恐れずにいうと、暴力的な人がいない、もしくは少ない(もう20年以上前なので、今は全くいません)。CMは当然広告なので、クライアントが絶対の存在で、視聴者やアーティストのためではなく、商品を売る為の映像を作るということが全く新しい体験でした。こんな世界があるのだと、驚きました。
当時の広告現場は、まだフィルム撮影も数多くあり、「やっぱフィルムの質感はいいよな」とちょっと専門学校で触ったくらいで知ったかぶりしてましたね。
そこからは、PM(ADと同じような存在ですね)を7年、プロデューサーを5年経験しました。予算もあるメジャーなCMを数多く担当でき、海外撮影も経験出来ました。
コンプライアンス、働き方改革の波
CM業界で順調にキャリアを重ねていたときに起こったある事件。これは言及しませんが、その事件を契機に「働き方改革」が始まります。
36協定遵守、22時以降の業務停止、違反者への罰則など。(当たり前ですね)
私は、本当に怠け癖のあるあまり社会に適合できない人間ではありますが、大好きな映像制作の為なら、それほど苦にならず、それよりももっと楽しく自由に映像を作りたいという思いが強く、当時の私は次第に窮屈に感じてきました。
また広告業界も10年以上になると、広告業界の慣習に疑問を持ち始め、39歳で「よし!やめよう!」と突然決心しました。
IT企業で広告代理店事業の立ち上げ
転職活動を始めると、ラクスルというダジャレのような会社のCMOからスカウトが来ました。調べてみると印刷プラットフォームの会社でした。なんでそんな会社から自分に?と思いましたが、話を聞いてみると、これから一から広告代理店事業を立ち上げる、今の広告業界を変えたい、という熱い思いを聞き、これは大変そうだけど面白く、また自分の広告業界の知見も活かせると思い入社しました。
ラクスルの「仕組みを変えれば、世界はもっと良くなる」というビジョンに共感したというのもあります。
それからの日々は、なんというか文化祭前夜のような感覚で、CMの企画から制作、契約書の作成、予算管理、採用面接、経理など、事業立ち上げに必要なことをなんでもやらせていただきました。次第に認知も上がり、仲間も急激に増え、クリエイティブプロデュースに専念するようになります。
ノバセルという事業名になり、ラクスルグループから分社化し、すごい方々が仲間として入社し100名近くまで増えてきた頃、私は45歳という年齢になっていました。
45歳の再挑戦
10年前には思いもしなかったことがエンタメ業界に起き(良いことも悪いことも)、映画、テレビ、広告業界で大変革が起き始めました。
これは、大きく映像業界全体が動き出す兆しかも、今なら10代のときに憧れた映画業界にチャレンジできるかもしれない、と思いノバセルを退社し、UNITED PRODUCTIONSの門を叩きました。
入社時の条件として、映画の企画プロデューサーに加えCM制作部の立ち上げも託されました。これは願ってもないことで、映画・ドラマに関しては未経験なのでCM制作を兼業することで、気兼ねなく好きな仕事にも携われると思い、喜んで受けました。
そして、これから
今は、映画やドラマの企画を作成しながら色々な会社に提案し、フィードバックをもらってはブラッシュアップさせていただいている日々です。
CM制作部の方もありがたいことに、昔よしみで数社から案件もいただき、制作を進めています。
たった25年の間に映像業界は大き変わってきました。テクノロジーの発達、働き方改革、コンプライアンスの意識変革・・・。
さらにAIの登場により、これまで以上に映像業界は大きく変わっていくはずです。
これからの25年は楽しみでしかないですね。
ざっくりではありますが、自分のような人間でも紆余曲折しながら、やりたかった仕事に就けるということを知っていただき、これから映像業界を目指す誰かの背中を少しでも押せたらと思います。