人生の選択①『私はこうやってディレクターになりました』

  • プロデューサー 鵜飼

■はじめに…

今年の1月より中途入社しました
バラエティ制作2部プロデューサー鵜飼です。

『人生の選択』とか恥ずかしいワードをタイトルに入れましたが、
この映像業界において
「ADからD/P」「ADから芸人」
「仲間を集めて起業」「制作からマネージャー」
「会社員からフリーランス」 などなど

クリエイティブで自由な業種だからこそ
他業界よりも『人生の選択肢』が多いと感じています。
かくいう自分自身も様々な選択を経てこの会社に入社してきました。

ですのでこのブログでは、自分がどんな『人生の選択』をしてきたのか、
その時の思いや先輩からの教えを載せながら記していければと思っています。

とはいえ、これまでの経歴を全部書いたらメチャクチャ長くなるので
今回は『大学→派遣AD→Dに昇進』までを紹介します!
※それ以降は、また次に書く機会がいただけたら!

そんな大した人生を歩んできた訳ではありませんが、
就活中の方や、業界で思い悩んでいる若い方が読んだときに
少しでも参考になったと思っていただければ幸いです。

それでは早速!

■勉強漬けの大学生活(18〜23歳)

大学時代は自分で言うのもですが、ひたすら勉強してました。
理由は「公認会計士」になりたかったから!

もともと“経営に興味”があり“数字の計算が得意”さらに“平均年収が高い”
すべての条件が揃う“公認会計士”になるべく勉強漬けの日々を送りました。
ちょっと自慢ですが “日商簿記1級”なんかも取得しました。

映像業界では特に必要ないこの資格
ですが、この資格を取得が後に、
この会社に入社するキッカケになりました。
(※この詳細は、次にブログを書く機会に記そうと思います。)

ただ人生は思い通りいかず、公認会計士の試験に落ち
さらに、就活で金融系やコンサル系を受けましたが上手くいかず…

そんな中「スーツ着るの疲れたなぁ…」と思っていたところ
髪型自由・私服可というワードに釣られ
適当に受けたテレビ制作会社で内定ゲット!そのまま入社。。。

結果、死ぬほど勉強してきたものとは無縁の世界に…
このときは公認会計士の試験に落ち、頭が回っていなかったのかも。
ですが、この選択をした当時の自分に「ナイスチョイス!」
褒めてあげたいくらい、今ではこの業界を楽しんでいます!

その理由は
「しんどいけど毎日が刺激的!」「みんなを笑顔にできる!」
「この業界でしかできないような経験ができる!」
「テレビが衰退しようが映像制作という仕事は将来なくならない!」
などなど挙げ出したらキリがない。
※このHPの他の方のブログを見ればそれは伝わると思いますので是非!

ですので、就活中でこのブログを読んでいる皆様
「いい会社に入らないと!」「一流企業以外はダメ!」などと頭を固くせず
気軽に映像業界に興味を持ってみてください!
かくいう自分も『私服OKで稼げる』くらいにしか思っていなかったので笑

それでは、いざ入社した後はどうだったのか…

■ADとしてフジテレビに出向(23〜29歳)

派遣専門の制作会社で、
初めて出向したのはフジテレビ『爆笑!大日本アカン警察』
そこからフジテレビで6年間、ADとしてボロボロになるほど働きました。

どんな経験をしてきたか書き出すと
「苦労自慢」とか「時代錯誤」と言われそうなので割愛しますが…
正直、死ぬほど辛かったです。が、これだけは言えます。

それは…

辛かったことほど“笑い話”として残る

よく上司や先輩が声高らかに語る「あのときは〇〇だった話」
皆さんも先輩との飲み会で経験されたことはありませんか?
その内容は、当時の辛い自慢や寝てない自慢、そしてとんでもない失敗談などなど。
「何度も聞いたわ〜」「もういいから」と感じることもあると思います。

ですが、その話を語っている時の先輩たちはどんなテンションで話していますか?
それはもう楽しそうに話していませんでしたか?
自分もそうなんですが、辛かった時の話ほど頑張ったからこそ
印象的に、鮮明的に頭の中に残っていて良い思い出に変わっているんです。

ぶっちゃけ自分も何度も「業界を辞めよう」と思いました。
「毎日のように “クズ”“死ね”と先輩ADに言われた日々」
「ロケ現場で先方とモメて1時間以上土下座」etc…
この瞬間、死にたいと思ったことも幾度とあります。
結果、辞めることに踏ん切れず今も業界にいるんですが…

でも、久々に仕事仲間と会って話すときは、
そういった「辞めようと思った瞬間」や「辛かった出来事」「失敗談」ばかり!
辛くてしんどかった出来事ほど、時がたてば楽しく話せちゃうんです!

なので、もし今
「忙しくて辞めたい」「辛い…飛びたい…」等、思っている方がいたら
数ヵ月後にはその悩んでいたことが『酒のツマミ』になるくらいの気持ちで
肩の力を抜いてみてはいかがでしょうか?

【↑: 寝てなさすぎて床で落ちるのは日常。でも本当に良い思い出】

【↑: 4泊5日沖縄ロケ。しんどいだけじゃない!楽しい業界!って感じの写真も一応】

■ディレクターに昇格(29〜30歳)

フジテレビにADとして出向して
ディレクターに上がるまでに6年かかりました。長かった…

このブログは
ADの方、そしてこれからADになる方が多く目にされると思うので、
ここで自分が体験した上での
“ADからDに上がるための絶対条件”を1つ!

それは
・ロケをバリバリ回せること?
・面白い台本が書けること?
・オフラインがつなげること?

もちろん、すべてディレクターとして問われる能力ですが
それ以上に大事なことがあるんです!

それが…

『Dに押し上げてくれる後輩がいるかどうか』

自分の場合、
「CADの仕事、全部引き継ぐんでDの勉強に専念してください!」
と熱いことを言ってくれた後輩がいて、その後輩にすべての業務を引き継ぐことで
ディレクターに上がることができました。
本当に、その後輩のおかげでDに上がれたので感謝しかない。。

ADをDに上げるということは、
“番組を回していたADが1人減る”ということなんです。

「何を当たり前のことを…」と思われるかもしれませんが、
各テレビ局の演出やCP、フリーDにとっては
“番組が円滑に回ることこそが一番良し”なんです。

そんな中、「あいつをDにあげたら番組が回らなくなる」
少しでも思われたら…

「どんなにロケが回せても」
「どんなに面白い台本がかけても」
「どんなにオフラインができても」

Dにすんなり上がることはできません。
そのせいで、Dに上がれず番組を辞めたという方も多く見てきました。

なので、ディレクターになりたいのならDスキルも大事ですが
それ以上に、後輩の育成に力を入れてください。
「自分が明日抜けても番組が回る」くらいに後輩を育てる!

そうして初めて、演出・P陣の中で
「あいつDに上げてやろう」というステージに立てるのです。

といっても、言葉にするのは簡単ですが
この“後輩育成”がメチャクチャ難しい…

ということで長くなりますが、
師匠だったCADの方の育成方針をいくつか載せておきます。

■責任を与えて仕事をふる

→ただし、振った仕事の中途経過、あがりの確認及び修正、
そしてフィードバックを絶対にしてあげてください。
これをしないと、失敗があった時にあなたの管理不足にもなってしまい、
Dへの道が遠くなる上、後輩からは何もしない人と思われてしまいます。

■時間がかかるのは覚悟で仕事をふる

→仕事をふるときに、“自分でやった方が早い”と思うことは確実にあります。
でもそれは当然のこと。だってあなたの方が経験値があるから。
あなたが優秀だから早いのではなく、やってきたから早いのです。
なんで、初めは遅くてストレスかもしれませんが、とにかくやらせてください。
でないと永遠とあなたが、その作業をしないといけなくなります。
そしたら一生、Dに上がることはできませんので…

■発言権を与える

→特に後輩の子がミスをしたとき。
頭ごなしに叱ってしまうと萎縮して他の作業もうまくできなくってしまいます。
なので「なんでミスをしたのか?」「どうしてこうしたのか?」
一度、後輩の行動の意図をしっかり聞いてあげてください。
そして、後輩の立場に立った上で、間違っている部分を訂正してあげてください。
でないと、永遠と同じミスを繰り返されて、押し上げてもらえなくなります。

これらは、実際に先輩にしてもらって成長できたと思うことなのでご参考までに!
本当はもっと色々挙げたいのですが、長くなりすぎてしまうのでこれくらいに…

ということで、今回はここまで!

このまま行くと、
とんでもない長文で読む気もなくなると思いますので。

次ブログを書く機会には、

人生の選択②『派遣社員からフリーディレクター!そして会社員へ』編

を記せたらと思います。
その機会がいつ来るのかはわかりませんが…

最後まで、お付き合いされてくださった皆様
本当にありがとうございました!

【↑: 最後に1枚。お互いDになって出会った同期のSMS。
本当に感慨深い…いい出会いがある素敵な業界です】

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